そして分類した先に生まれた、ジャンル(種類)に仕切りを創る事でもある。
仕切りがあるから、僕らは会話の中で、サッカーの話と、ゴルフの話を
使い分け、頭の中で切り替えることが出来る。
つまり「カテゴライズ」は、上手に使うと「話がはやく」なるという良さがある。
しかし、
例えばジャンルを、音楽、学問、スポーツ、研究、政治と分けても、
「音楽」の中には、ロック、ブルース、ジャズ、ファンク、民謡・・という様に、
次の次元のジャンルがあり、その1ジャンル、「ロック」の中にも、
ブリティッシュ、ハード系、プログレッシブ、グランジ・・・と
また新たな次元で、仕切りを創ることが出来る。
そして、「ブリティッシュロック」をビートルズとローリングストーンズに分け、
「ビートルズ」を初期、中期、後期と「カテゴライズ」して、
その曲の作曲者がポールかジョンか、はたまたョージなのか・・・・。
つまり「カテゴライズ」は、「いかようにも続けて分ける事が出来る」という、
特性がある。
僕らの脳内はこのような既存の「カテゴライズ」の影響下にありながら、
個人的な「カテゴライズ」を毎日、無意識に行なっている。
特に人間関係の中、自身の経験から、他人を「カテゴライズ」する事は、
対象を自分の腑に落とし、自身を保つための大きな指針となっている。
自分の中で「カテゴライズ」された後には、無意識にも安心感がある。
何故なら、自分の「カテゴライズ」から大きくはみ出す様な、
予測不能な事態や、圧倒的な人物に会った時に、
不安や居心地の悪さが襲ってくるからである。
そこに「カテゴライズ」の弱みがある。
「カテゴライズ」とは「仕切りを創る」事。
心や頭の中に、多くの壁が作られれば、感情や思考の動きも窮屈になるし、
何かがぶつかって壁が壊れたら、修復(立ち直るの)に時間がかかる。
そしてその修復は大抵、対処療法で、より厚くて高い壁を作る事になる。
これは、心の消極的な動きとして、自分の分類を超えた存在に出会っても、
何とか自分のジャンルに収め、
そこに収まらない部分は「見ないように」するという事になる。
(=無視するから壁が動じない=しかし壁の外は見えてない)
それがもっと積極的な行為になってくると、先に壁を仕掛ける。
「〇〇さんて、(見た目)〇〇だよね」
よくあるこの何気ない一言の中に、相手を「カテゴライズ」したい気持ちが出る。
しかし、言われた方は内面(本質)を見て言われている訳ではないので、
あまりいい気はしないし、発言者に影響力がある場合、
言われた方は可能性を潰される事にもなりかねないし、
発言者側も、彼の本質を見れるチャンスを潰す事につながる。
そもそも、他人なんて、全て自分の想像を超えた予測不能な存在なのである。
分かったつもりの相手でも、腹の底は分からないし、人は日々変化している。
しかし、
人間は心身共にコンフォートゾーン(居心地の良い場所)が好きなので、
変化しないもの「外側」に求め、外側を固めて、安心して生きようとするあまり、
他人のイメージを、自分の枠に入れて、本質よりも分類で捉えてしまう癖がある。
「カテゴライズ」とはモノの見方の固定化である。
だから、誰かを「カテゴライズ」する事は、乱暴であり、
本来無意味な事なんだと思う。
いろんな「カテゴリー」があるから世界はドラマチックに写るし、
研究だって、会話だって、よりマニアックに、よりスムーズに行う事ができる。
しかしその仕切りを自分の中に堅固に創る事は、諸刃の刃でもあるという事。
柔軟に、風で揺れるカーテンでも、仕切りは創れるという事です。
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