前回からの続き「ドゥンドゥンバ」についての投稿です。
(特にギニアスタイルで)ジャンベを叩いていると、
いつかは必ず対峙する事となり、
「叩くのが難しそう、でも習得したい」そう思わせるリズム「ドゥンドゥンバ」。
そしてやっとこさ習得した人の多くが、その後、
取り憑かれたようにハマって行くリズムでもある。
「なぜこのリズムに限って、全く受け付けない人や、苦手意識、
逆にある種の憧れがあったり、中毒者達を量産するのか?」っていうのが、
今回のテーマ「ドゥンドゥンバ」を考察して行こうと思ったきっかけです。
前者の、受け付けない人や、苦手意識が生まれる大きな理由は、
前回記事にもあった、メトロノーム的役割を果たすはずのケンケニが
「オフビート」にいることである。
「オフビート」は「オンビート(基準)」があるから成立する概念である。
良い悪いではなく、僕ら日本人の耳は音楽を聴く時に、
自然と「オンビート(基準)」に落ち着こうとする傾向がある。
だから「オフビート」であるケンケニを叩こう(聞こう)とする時に、
まず「オンビート(基準)」を感じ、その立場でい続けようとする。
「んっケンケニんっケンケニ」と。
それは、大地(基準)に足をしっかりつけて「重力」を感じつつも、
自分が裏返った(逆立ち)状態になろうと努力しているようなものである。
こんな感じ?
この状態も一定時間なら、安定はするとは思うけど、
カタチとしては無理があるから、長時間の持続が厳しくなってくる。
ではどうするか?というと、基準を一つに固定しないと言うこと。
重力を感じながらも、自分を逆立ち状態に持って行く。
「ん?どうゆうこと?」って
つまり、
大地(地球)を踏みしめ立っている自分をどんどん俯瞰していくと、
球体の上側に立っている自分がいる。
そこから、地球の上下を180度回転させて見てみれば、
逆立ち状態の自分を簡単は作れる。
宇宙の中には天地はない。と言う視点。(音楽にも本来天地はない)
夜空を見上げて「夜空に落ちるー!」と感じる視点。
でも地球には重力があるから、実際に落ちることはない。
耳でどう聞くかは自由だが(地球を回すように)
手(身体)は重力を感じながら叩くことがとても重要となってくる。
太鼓的に重力を感じる所とは、
アクセントが乗りやすく、大きな音につながる箇所のこと
通常「オフビート」と呼ばれるところは、重力を感じ終わって、手が跳ね上がる
所にあるから、不安定で、アクセントが乗りにくく、小さい音になりやすい。
だから「オフビート」であってもアクセントの持つ重力を感じる必要がある。
「ケンケニは、過度に基準を意識せず、
まずは自分のフレーズの持つ重力を感じる。
それが結果としてオフビートを叩いている状態になると、
重さが乗り、音が大きくなり、他の音につられる事なく、
逆に皆を引っ張って行くような存在になれる。」
また、ケンケニの話で長くなってしまったので(笑)次に行きます。
3・サンバンとドゥンドゥンの関係性
「ドゥンドゥンバファミリー」が人を惹きつける魅力について。
前回その理由について「メドレーシステム」にあると書きましたが、
そのメドレーを展開して行くのが、サンバンとドゥンドゥンと言う2つの筒太鼓。
このリズムの花形的存在といっても過言ではない。
サンバンはリズムの骨格を叩き、
ドゥンドゥンはその骨格に添ってリズムを肉付けする。
ネズミの骨格から、へび、象の骨格まで大小様々骨格があるように、
リズムによってサンバンは骨格を作り変える。
しかし必ず「肉」が「骨格」の周りに付くように、
ドゥンドゥンはサンバンがどんな骨格を形作ろうとも、それを包み込む。
そしてどんな生き物も生きて行くために必要な鼓動をケンケニが表現している。
(だからケンケニが止まると、リズム的には死んだも同然。)
そうやっていろんな生き物を音楽の中で再現して行く作業が、
僕の持つ、ドゥンドゥンバファミリーのイメージである。
関節には曲がる方向、曲がらない方向があるように、
サンバンの音楽的立ち位置、は変わることがない。
それは先ほどの「基準」と言う言葉を使うと、
サンバンは常に「オンビート」にいる事となる。
そして、関節の周りには肉があまり付かないと言うように、
ドゥンドゥンも、サンバンのオープンの音の周り付くと言う法則性がある。
そのドゥンドゥンの音楽的立ち位置は「オフビート」。
つまり、お互いが相反する重力を感じながら、リズムが作られている。
「オン方向にも、オフ方向にも、アクセントがくる」
それがこのリズムを力強く感じさせる理由であり、
中毒性になるほどの、呼応感、一体感を感じることの出来る
ポイントなんだと思う。
で、ネズミの骨格構造が分かれば、象の骨格構造も何となく分かるように、
生き物の骨格には、動かぬ共通性がある。
(長さは違えど、指の骨があり、大きさは違えど、足は歩くために
関節の曲がる方向が決まっているとか)
ドゥンドゥンバの中の様々なリズムにもそのよう法則性が見られる。
(極論、初めて聞くサンバンに対しても、注意深く聞けばドゥンドゥンは
合わせて行くことが出来るし、その法則性に従って新しい
ドゥンドゥンバのリズムも各地で生まれていたりします。)
だからとり合えずはドゥンドゥンバのどのリズムでもいいので、
一つのリズムに集中して叩けるようになったら良いと思います。
そうすれば、そこからドゥンドゥンバの世界はわーっと広がって行くはず。
楽器的な役割をまとめると、
サンバンは骨格(オンビート)。曲を動かして行く決定力と、
方向性を決める自由度はあるが、
その分ドゥンドゥンバリズムのボキャブラリーとダンスに対する対応力、
ドラム隊全体をまとめるを扇動力が必要になる。
ドゥンドゥンは肉(オフビート)。アンサンブルの中の最低音域担当。
聴く者を包むほどの音圧で空間を支配する。その分、
曲に厚みを出すための肉体的なパワーと、次にサンバンがどこに
動いて行くかを察知する予知能力的な力が必要になる。
そして最後にこのリズムを習得したい確信部分は、
ジャンベを叩くアフリカ人達にとってこのリズムが、
共通語のような存在になっているから。
勿論、このリズムの発祥の地では、
「音を楽しむ」というより「儀式の伴奏曲」という、伝統的な捉え方で扱われ、
本当の所、そこに住む彼らにしか分からない決まり事もあったりする。
それでも、
ギニア人は祭りでも、結婚式でも、村でも、都会でも、このリズムを叩く。
マリ、ブルキナ、コートジボワールでもそれぞれの捉え方で、ドゥンドゥンバを
やっていたし、日本人同士だって太鼓仲間に会えば「久しぶりっ!」
ってな具合に「パタピパタパッ」と叩き始める。
在日ギニア人がアフリカンライブに来れば、必ずと言っていいほど
最後はドゥンドゥンバで終わるし(笑)。
実はドゥンドゥンバはそれほど、
アフリカンダンサーやドラマーにとって開かれたリズムなのである。
それは音楽的ルールがハッキリとしていて、
それでいて、オリジナリティを乗せることが出来るほどに寛容なグルーブ
だからと言える。
そしてドゥンドゥンバは一人では絶対に成立しないリズムという事。
人の声を聞きながら、自分の言葉もみんなに聞こえるように話す音楽。
つまりある種「ドゥンドゥンバ」と言うリズム自体が、
一つのコミニュケーションツールとなっている。
だからこそ難しいし、合った時、伝わった時は一人の何倍も気持ちいいし、
もし踊れて叩けている環境があるのなら、それに感謝しなくっちゃいけない。
思いやりや忍耐を学ぶ事の出来るリズム「ドゥンドゥンバ」
あなたも是非挑戦して見てください。。
あっ、毎週土曜日のオープンクラスではこの「ドゥンドゥンバ」に挑戦中!
今後しばらくやってまーす。
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