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木を見て森を想う

「木を見て、森を見ず」という言葉がある。
これは物事の一部や、細部に気を取られて、全体を見失うこと。
例えば、木を「自分」に当てはめてみると、
森は、自分を取り巻く「社会」という事になる。
 こうゆう場合、社会は「木を見て、森を見ず」な人間を、
無法者、変わり者、よそ者、と呼ぶ。
なるほど、しかし逆に「森を見て、木を見ず」という状況もありうる。
全体を見すぎて、細部を無視してしまうような状況。
 客観的に見てみたら、
行き過ぎた民主主義や多数決はこんな状況なのかもしれない。
社会的な要求を見すぎて、自分の本当の欲求がわからなくなったりもするって事。
 そしたら、結局僕らは何を見れば良いのか?
「木(細部)を見たらいいのか?森(全体)を見たらいいのか?」
「木を見て、森を思う」
この言葉の真意とはなんなんだろうか?

今、木と森という二つのキーワードで話が進んでいるが、
木も焦点を変えていけば、様々な世界を包括している。
根っこは、日々水を吸い上げ、地中の中でテリトリーを広げているし、
幹には、沢山の苔、虫が住み、食事や子育て、時に争いながら暮らしている。
葉っぱは、季節とともに色、大きさ、質感を変えて、世代交代を繰り返し、
花や実は、ここまで来た道のりと、これからの道のり、
つまりはその木の持つ歴史の象徴として捉える事ができる。

全体(森)から見た木(細部)も、さらに細分化する事が可能という事。

同様に森というものも、
半径10mなのか、半径100mなのか、半径1kmなのか10kmなのかで
見えてくる世界(森)は変わってくる。

全体もまた、見方によっては一部となる。
「森」を全体と見たところで、それを包括する「大陸」が現れるし、
「大陸」を全体と見たとしても、それを包括する「地球」「太陽系」
「銀河系」・・・と拡大してゆき、
全体の概念は追いつくことのできない堂々巡りのように膨らんで行く。

「木」「森」というのは細分化から拡大化まで
無限にある概念の中の通過点でしかない。

その2点の間にはいくつもの「次元」が存在し、
その両端の先にも、いくつもの「次元」が続いている。
つまり「木を見て、森を見ず」とは「木」と「森」という単なる二元論ではなく、

その間にある世界や、その先の世界も想像させるための言葉、
つまり、
世の中、物事、人間、時間の多元性を論じた言葉ではなかろうか?

 例えば、今日やった「ちょっとした失敗」が、1週間後に大事になってしまい、
1ヶ月後には、それが原因で仕事をクビになり、半年後に再就職したら、
1年後にはそれが自分の天職だと気づいて、5年後には社長になってて、
10年後には、事業拡大に失敗し負債を抱え、、、、と、
「ちょっとした失敗」も、いつの時点で語るかによって、見え方は変わってくる。
しかし現実は、その時点での出来事の見え方に、一喜一憂し、心を乱すもの。
だから、
物事の見方を一点で固定せず、いろんな次元から、物事を捉えようよ
というのがこの言葉の真意なのではないだろうか?

太鼓を叩くというシンプルな事にも、それは当てはまる。
パルスを聴いて叩くのか、


拍を感じて叩くのか、
グルーブに身を乗せ叩くのか、

聴衆の熱気に押されて叩くのか、

対バンとの関連性やイベントの趣旨に乗っ取って叩くのか、
世界平和のために叩くのか、、、
どの「次元」で叩くかによって出てくるフレーズは変わってくる。
 逆に言えば、「フレーズ」はその時の「次元」を語るものでもある
そうゆう「次元」を自分の中に沢山持っていて、自由に行き来できる事が、
僕の目指す「自由な太鼓叩き」なのかもしれない。
 それを表現するための「技術」は同時に向上させなきゃいけないんですが、
同じ「次元」だけ突き詰めても、全体を捉えられないのは
どうやらどの分野でも同じのようです。
「木を見ている」だけでも「森を見ている」だけでも不十分という事。。
道のりは遠いですが、
 「木を見て、森を想う」くらいから始めようかな。。





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