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森の仙人と町の仙人

 昔々、ある国に2人の男がいました。

2人は、煩悩多き町での生活が嫌になり、癒しを求め、浮世を捨て、

悟りの為の修行に出ることにしました。


2人は同じ森に入り、煩悩を捨てる為の厳しい修行を行いました。

何年も過ごした後、同時期に悟りを得た2人は仙人となりました。

一方の仙人は、悟りに導いてくれた森での生活に安息を見出し、

そのまま森に残り、

もう一方の仙人は、森での生活を捨て、自分が捨てた町に戻って行きました。

同じ悟りを得て仙人になった2人だったが、別々の道を行きました。。。

 町に戻った仙人は、自分が森にいた間に、

世間が随分と変わっていることに驚きました。

それは何もかもが随分と速いスピードで動いていると言うことだった。

人の歩き方も、話し方も、思考も、全ては森での生活とは正反対であった。

 せっかく森で悟った話を誰かにしようとも、仙人の話すスピードを

遅く感じた町の人は、仙人の声に耳を貸そうともしなかった。

 町に戻った仙人は、自信を無くし、悟りを得たはずのその精神は乱れていた。

しかし数日、町で過ごした仙人は、

世間の人々の変わっていない所にも気がついた。

それは、人々が実は「癒し」を求めていると言うことだった。

 その為の答えを持っている仙人は、どうしたらそれが人々に伝わるかを考えた。

人々に森に行く様に促し、森の中で自分の言葉を伝えようとも思ったが、

忙しく動く彼らにそんな時間はなく、万が一連れて行ったとしても、

自分と感じた様なギャップを経験をさせてしまうと思った。

そこで、仙人は自分の話すスピードや内容を彼らに合わせる努力をした。

それは一見、自分を煩悩的生活に戻す様に思えたが、

仙人は煩悩に目もくれず、人々に自分の言葉を伝える事だけを考えた。

すると、世間の人たちも少しずつ彼の言葉を理解する様になり、

彼の伝える「悟り」の素晴らしさに癒され、

何年か後に、彼は人々から仙人と呼ばれる様になった。

 一方、森に残った仙人は平安の悟りの生活を続けて、

死ぬまで幸せに暮らしましたが、その存在を知る者は誰もいませんでした。

写真はイメージです。


と、どこかで聞いたことのある様な物語ですが、アラカリのフィクションです。

何が言いたいんだ!?って感じでしょうが(笑)

僕は、良い仙人こそ、町に降りて行くべきだと思ってます。

町に行けば森では経験していない、挫折感や人間関係を味わうわけですけど、

孤独な森という空間は、そもそも人間関係や煩悩の少ない非日常的空間であり、

そこで悟る事は実は、そう難しい事では無いのかも知れない。

それよりも、煩悩多き町の中で、悟りを持続する事の方が難しく思える。

そして、物語的に2人の仙人の選択の違いで、「悟り」の意味が変った。

森の仙人の選択は「自分の平安のため」の悟りであり、

町の仙人の選択は「人々の平安のため」の悟りとなった。


アフリカに行って帰ってきて、これと似た様な?経験をした。

8ヶ月間、身も心もどっぷりをギニアに浸かって、その現地の素晴らしさを

日本のみんなに伝えよう!と思った時に、意外な程に周りとの溝を感じたのだ。

今思えば、熱量だったり、見てる景色の違い、

ノリがわからないからノレない事が原因なんだろうけど、

なぜかストレートにアフリカで感じてきた事を表現しようとする程に、

自分が思い描く、みんなで太鼓を囲んで踊っているという状況が作れずに、

ライブの度にお客さんとの溝が広がって行くのを肌で感じていった。

その時の僕は、町で森の良さをただ語っていた仙人と同じだった。

森を想像できていない町の人たちには、

まず森を感じさせる事が重要で、彼らと同じ目線で伝える必要があったのだ。

ってこうゆう事は「何かを極めようとする」と必ずぶつかってくる壁である。

「何のために?」それを極めようとするのか?で物語の「悟り」同様、

極めた技術や知識の意味は変わってくる。

「自分の平安のため」の悟りを求めた仙人が悪いとは決して思わない。

人間社会を遮断し、ひっそりと自然と共に暮らす事は、

それこそ本当の幸せなのかも知れないが、

一度の人生ならば、色んな人とぶつかり、混ざり合い、人間臭いその中で

悟りを見出し、仙人となりたい。。

おしまい。





この物語きっと、読む人の心情や立場で色んな捉え方ができると思います。







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