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あっという間、今を生きる。

子どもの頃に比べ、大人になると1日が「あっという間」に過ぎて行く。



その1番の原因は未経験を経験することが少なくなり、その分、発見や洞察、

自分との対話の時間が減る所から来ているんだと思う。

「時間」は変化することのない「絶対的」なもののはずだが、

実は、年齢や環境、心情、物理的なスピードによって変化する

「相対的」なもの。




「相対的」ということは、それぞれの立場で認識が変わるということ。

全ては体感での話かもしれないが、大人になってからも

時間の流れを遅く感じる瞬間がある。例えば、

旅をしたり、新しい事に挑戦したり、物事に熱中、洞察、集中してる時。

逆に悩んだり、緊張したり、嫌な事が控えてても、時間は長く感じる。

つまりは良い事も、悪い事も含め、

「自己との対話の時間」が時間の濃度を濃くしているようだ。

反対に、

同じ景色、同じ習慣、無感情、安定した情緒、何も考えない時間、

受動的に情報を受け取っている(ボーッとTV.映画などを見てる)時などは

時間はサラッと流れて行く。

自分というものを保つには、どちらも必要な時間であると思っている。


しかしどちらも「一度過ぎてしまったら戻らない」という点では同じである。


大人が嘆く「あっという間」という言葉にはそんな「もう戻らない」という意味

が含まれているからこそ切なさ、儚さを乗せ響く。

しかしよく考えてみるとこの「あっという間」。

ブラックホール並みに全てを飲み込んでしまう暗黒な「言葉」でもある。



例えば、「5分前」から「今」までを「あっという間」と言えるし、

「昨日」から「今日」までを「あっという間」だと言える。

「先月」から「今月」、「去年」から「今年」、

「10年前」から「現在」、と考えて行くと、

1秒も、1分も、1年も、100万年とて、「あっという間」と言える。

つまりは全ての時間をその言葉で集約できてしまうのだ。



歴史の教科書を見てても、地球の46億年の歴史の中の45億9999万年は

1ページに集約され、たかだか1万年の歴史が残りのページを埋め尽くしている。

人類の祖先が現れ10万年経ったと言われているが、その10万年も、

地球の年齢を一年にした場合、たった2秒の出来事であるという。



つまり見方によっては、46億年も「あっという間」の出来事と言える。

そして、それを自分の人生に置き換えて見ても

やはり「あっという間」という言葉に集約されてしまうのではないか?

と思っている。

まぁ、それは終わりの瞬間その時になって見ないとわからないことではあるが、

「人生あっという間」だと認識しながら生きていれば、

いつくるか分からない死の瞬間に対して、いくらか心の準備ができると思う。


結論から言うと、「人生あっという間」への一番の対策は、


「今を生きる」事なんだと思う。


「今」自分が想う事、感じてる事に忠実に生きる事こそ、

ストレスなく、後悔なく、結果として失敗が少ない生き方なんだと思う。

人生あっという間なら、存分に自分を味わい、自分の欲求に正直にいたい。

勿論、その時の「自分の状態」が陰に向いてるのか?陽に向いてるのか?

で、外に現れる現象は変わってくるが、ストレスなく、後悔がないのなら、

本来、心は陽に向かって行くはずである。

 
ジャンベなど比較的即興性の強い音楽をやっていて、

流れるアンサンブルを人生の縮図のように感じ、

「今を生きる」事の大切さを実感する時がある。

リズムという色んな人の「主張」がある中、自分も「主張」する状況で、

人の主張を聞きく事は前提であるが、

聞きすぎると自分の主張が分からなくなったりたり、

「この次なんだっけ?」とか「さっき失敗しちゃった!」

とか思うと、手が止まったり、

今以外や外の情報に囚われ過ぎると、自分を見失ってしまう。

逆に今を生きるのが上手なアフリカ人の演奏を見ていると、

「主張」と「主張」がうまくかみ合い、それが「会話」になっている。

その上に歌が入れば、聞こえるように自然に太鼓の声のボリュームは落としたり、

ダンスが入れば、ボリュームを上げ、

テンポをダンサーのテンションに合わせたりする。

アフリカンの曲はその時々で変わる瞬間に対して流動的に対応する、

超「今」主義の音楽なんだと思う。

だから、ジャンベを叩く極意は「今自分の感じてる事に忠実に叩く」事だと想う。

出力の為のはっきりした声や、ボキャブラリーや、

それを体現させる肉体的なトレーニングが説得力を上げて行くものではあるが、

下手でも自分の感覚に忠実に叩いてる人のリズムにはエネルギーを感じる。

つまり、「今を叩く」感覚は「技術」とはまた別の問題という事。

それはパーカッショニスト以外でも、全ての楽器演奏者に言える事で

アーティストのそこに僕らは「魂」とか「スピリット」とか

「雰囲気」を感じて、引力が生まれ、引き寄せられて行くんだと思う。

音楽も人生も、今を生きる事で、今に集中して、

今の自分の最高のパフォーマンスを引き出せるのだと思う。

そのクオリティーを上げて行く練習の中では、構成を考えたり、確認したり、

「今」以外を見つめる以外の時間も大切ではあるが、

儀式、ライブ、発表会の本番など自分が演者となっている時間は、

自分に忠実に、その瞬間瞬間を感じて、今を生きて(叩いて)いる姿で


挑みたいものである。


 その為には普段の練習から、意識する事が大切だと思う、

自分が「今」何を唄っているのか?

そのリズムがグルーブしているのか?

「今」は誰の声が一番大きいのが良いのだろう?とか、

自分が喋る番だろうか?、リズムのスポットはどこにある?など、

確認できたらそれを感覚に落として行く。

つまりは叩きながら「考える」ではなくて、「感じる」方に移行させてゆく。

そうゆう訓練をしたら、今だけを見つめるだけで、

大概な事は対応出来るようになってくる。

幸いリズムがあるものには波があるから、予想が効く。

音楽も人生も同じ、今を乗りこなし生きる大切さ。


今日もあっという間でした。



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アフリカ人的リズムの感じ方

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分かるかと思うのだが、アフリカ人のリズムには、何か異質のエネルギーを感じる。


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僕自身も色々な理由からジャンベを続けてこれたが、
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時に同じ生活をする事で見えてきた違いは、
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挙げたら切りが無い。


が、その違いを一つ一つ理解して、日本人らしく、論理的かつ柔軟な感覚で
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まぁフィーリング(感覚)の話なので、習得には個々人の訓練と慣れが必要になってきます。

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KUKU (4/4) ジャンベ アコンパ


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③はアフリカ人的リズムの捉え方。
S(スラップ)を頭と捉えて、「カッ ドントトッ」とリズムを出している。
この場合、リズムの集中力が6拍分、2拍が休憩となる。


同じリズムではあるが、捉え方によって、休憩できる拍が変わってくる。
休憩が増えるということは、それだけ楽にリズムを捉えることができるのです
もう一つ、よく叩かれるリズムで見てみましょう!
KASSA(4/4)ジャンベ アコンパ

①は通常どおり、リズム譜にリズムを記したもの。

②は日本人的リズムの捉え方。
拍の頭をリズムの頭と捉えて「カッ カカットト」とリズムを出している。
この場合に至っては、休憩の拍がなくなり、…

声と音色。話し方と叩き方。

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勿論、その状態でもリズムアンサンブルとして楽しめるものですが、
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太鼓の「音」をアフリカの言葉で「Kan」といいます。
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同じ意味合いとして、捉えている訳です。

 なるほど、僕も長年色んな人ジャンルの太鼓叩き達と太鼓を叩いてきましたが、
叩き手の出す太鼓の音色やフレーズは、
そのまま叩き手のパーソナリティーを表してる
と感じてきました。
 声の大きない人、自分を余り表に出さない人、すぐふざける人、真面目な人、
おしゃべりさん、無口、自信がある人、自信がない人、etc.....
 太鼓がシンプルな楽器だからか、
そうしたシンプルで根源的な特徴ほど、音によく現れる。
もちろん、その時の心情や気分も変化しながらも影響していて、
太鼓を前にした時に、自分自身で自分の強い感情に気づく事もある。
 いわば、太鼓を叩いていくうちに、自分のそうした根本的なエゴの部分や、
自身の変動的な感情に対峙させられ、音楽的に成長するために、


自分の心の癖をも修正しようと試みる事になる。
だから楽器の習得は人生の縮図のようなものなのだ。
自分の良い所も、悪い所も、生き様も、癖も赤裸々に見せてくれるだけでなく、
楽器を始めて触ってから、出来ることを増やしていく過程は、
0歳から初めて成長してゆく過程をもう一度味わうチャンスなのだ。

そして突き詰めていくと自分ではマイナスに見えていた要素も、
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生まれながらに「美声」を持っている人がいるように。
初めてジャンベを叩いたのに「綺麗な音」を出せる人もいる…

リズムから解く人間関係 〜ポリリズム〜

人間は母親のお腹にいる頃から、鼓動というリズムを鳴らし始め、
産声をあげ、呼吸というリズムを始め、
意識しようがしまいが、朝昼夜と時間のリズム、春夏秋冬といった季節のリズム、
所属団体(家族、学校、会社など)の習慣のリズムなど、
日々様々なリズムの中で暮らしている。



「僕らの生は、数あるリズムが、同時に鳴っている上にある」といっても過言ではない。

リズムは、「一定間隔」で「継続」されることにより、心地良いリズムとなる。
逆に「不定間隔」に「断続」的なリズムは、人々を不快にさせる傾向がある。
 そうゆう意味で、鼓動は人間にとって一番身近なバロメーター的リズムとなっている。


平常時、「トクトク」と脈打つ鼓動が例えば、車に突然轢かれそうになった時に
「どきっ」と反応し、「ドキドキドキドキ」と鼓動が速くなる。
これは、自分に迫った危機に対する回避反応ではあるが、
その後必ず怒りが沸き起こる。(轢かれてなかった場合ですね)
 その怒りは、「あぶねーだろ!」って気持ちと、
自分を「どきっ」とさせたこと=心地良いリズムを、中断させられた怒りである。


 時差ボケで苦しめられたり、昼夜逆転の生活がうつ病を招きやすかったり、
休日出勤に嫌気がさしたり、予想してなかった渋滞に巻き込まれたり、
人間は自分のリズムが崩された時に、ストレスに感じる。のです。

自分のリズムを崩す際たるものが、、、、他人です。
まぁ、動物の中で、唯一エゴを持った僕ら人間の宿命みたいなものですが、
自分のリズムとグルーブして、リズムを昇華させてくれるのも、他人です。


人間は本来それぞれ自分の心地良いリズム、得意なリズムで生きていたいものなのです。