今日はアフリカンリズムアンサンブルでの、裏返り現象について。
皆さんは、普段音楽を聞いていて、音楽が裏返って聞こえた経験はありますか?
多分、大半の人は何を言っているのか意味すら分からないと思いますが、
僕はアフリカンを学ぶ様になってから、この現象を何度も体験しました。
ポップスやロック、テクノ、ヒップホップなどラジオから流れてくる様々な音楽は
現代の日本で生まれ育った僕らは、いわゆる8ビートと言われる
「どんつぅカッつぅどんつぅカッつぅ」で言う所の「カッ」の音を聞くだけで、
自然にONE(リズムの頭)の位置を掴むことが出来きている。
だから、そうゆう音楽を聴いている日常では裏返る事はほとんど無い。
まして、そこに日本語の歌が乗っかってくれば、裏返り様は無い。
僕が初めて裏返りを意識したのは、西アフリカのマンジャーニと言うリズムで、
何時もの練習場所に、遅れて行ったら、みんなが全然知らない曲を叩いてて、
「え?」
キョトンとしてたら「マンジャーニだよ」と。。
しかし言われたもののその状態から、
どうやってもいつものマンジャーニには聞こえず、
結局リズムが終わるまで元には戻らなかった。
仕切り直し、逆にいつもの聞き方のマンジャーニに戻ると、
さっき聞こえていたリズムが思い出せないほど、いつものマンジャーニに。
つまり、それ程、全然違うリズムに聞こえていたってわけです。
通常のマンジャーニのサンバン(バンバンジー風に)
S・S・・C・・S・S・(バンバン ジー バンバン)
って聞こえる所が、始めの音が裏返り、
S・S・S・S・・C・・(バンバンバンバン ジー)
って聞こえてきたのです。
目安となるスネアがあるわけでもなく、
頭から始まるとは限らないアフリカのリズムを
我々が学ぶと、こうゆうことがよく起こるのである。
そして一度間違った?聴き方をしてしまうと、それを矯正するのは容易では無い。
既成概念が邪魔して、初めはそれ以外の聴き方なんて、
想像すら出来ない状態である。
この様な事を繰り返して、一つの疑問が湧いてきた。
「みんな本当に同じリズムの捉え方をしているのか?」と。
通常のマンジャーニは勿論リズムとしてかっこいいのだが、
裏返ったマンジャーニもまたリズムとして味わいがあったので、
例えば、コールからドゥンドゥンやソロまでも裏がったまま覚えていても、
表フィーリングの人とアンサンブル出来るのなら、
その聞き方もそれで真実となる。
他人が見てる赤と、自分の見ている赤が同じ見え方だとは証明出来ない様に、
他人の感じるリズムと、自分の感じるリズムが同じだとは証明出来ない。
確かに、覚えたはずの聞き方が違うと、それを修正するのには、
そのリズムを覚えた以上の時間を費やさないと、なかなか修正とはいかない。
それくらい「裏返り現象」は厄介なものではある。
しかし、それを攻略出来た時、聞き方が一つの増えた事になる。
つまり一つのリズムから二つのメロディーを聴くことが出来る。
アフリカ人のジャンベを聞いていても、
裏返りのインスピレーションから来たであろうフレーズがあったりするし、
同じリズムも少しずらして叩くだけで、
輪唱のような「くすぐったい」感じを味わうことができる。
だから、数々の裏返りも長い目で見れば、自分の実りとなり財産になって行く。
裏返り現象の体験と修正は「一つの真実を多方向から捉える」視点を持つ事であり、
それは発展させていけば、世界平和的なメッセージとも成りうる。
同じリズムを聞いて、違う捉え方をする人間がいるように、
同じ神を感じて、違う捉え方する人間はいるのだ。と。
違う呼び名だけど、お互いが感じてる偉大な力に対して信仰してるのだから、
お互い自由に行きましょうよ。と寛大な気持ちになれる。
音楽が裏返りに関して寛大な様に、
神も解釈の違いには寛大なのだ。
だから人間が、現象の解釈の違いで争うという事は何とも小さいというか。。。
「我こそが真実なり」と独善的な態度をとった時に、
正義と悪が生まれ、争いとなる。
一つの物事、事柄、現象、真実ですら
聴き方、見え方、感じ方、味わい方は人それぞれなのだ。
と、リズムの裏返りからそこまで感じる必要はありませんが、、、
もしいつか、アフリカンアンサンブルをやっていて、
リズムが裏返って聞こえてしまっても決して焦らずに、
むしろその状況を楽しんでみてください。
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