武道やスポーツによく表現として出てくる「心技体」。
辞書などでは、「心=精神力、技=技術、体=体力」と示している。
日本人には馴染みのある言葉でもある。
言葉の意味は分かるし、その大切さもなんとなく分かるが、その東洋的考えは、
自分のやっている「ジェンベを叩く事=アフリカン」とは、大分かけ離れた
所にあると、勝手に思い込んでいた。
だから、あえて一緒考えてみたことはなかったのだが、
今こそ、東洋人的視点で、アフリカンを捉えてみたいと思う。
そもそも「心技体」という言葉の目的は、
「ひとつのパフォーマンスには3つの要素があり、それらを統合させる事で、
最上級のパフォーマンスをする」為にあるんだと思う。
心・技・体それぞれ、「自分に足りないものはどれか?」「何を補えば良いか」
という、目安にもなりそうだが、心技体は自分自身の中にある確信であって、
「自分」という中で互いに関係しあっており、本来分けることはできない。
という前提を考慮しつつ、今回はあえて分けて考えてみる。
「体」とは「体力」の事。ジャンベで言うと、
どれだけ「速く」「長く」「大きく」叩けるかが「体」の表す事柄である。
一見、すべて「筋力」で補えそうだが、その真意は「体の使い方」にあると思う。
「力を抜いて、リラックスする事で、本来のパフォーマンスを引き出せる」
って事は、どんな競技にも共通する「秘訣」と言うことができる。
余計な力が入らないことで、関節の筋は伸びきって、骨があるべき所に並ぶ。
太鼓はそれを素直に音にしてくれる。
超根本的に考えてみれば、
「ジェンベは指の骨の並び方で、音色が変わる」のである。
0〜3歳くらいの子どもがジャンベに手を置くだけで、
ものすごく透き通った音を出せるのは、
ある意味不器用であり、「何かをやろう!」と言う意識の無い
、人間本来の手の形をしているからなのだと思う。
逆に器用になった大人達が「カン」の音を出そう!って強い気持ちを出すと、
それが筋肉に伝わり、筋肉を硬直させ、骨が本来のあるべき所には並んでいない
状態になってしまう。結果音は、耳にも、太鼓にも痛い、衝突音となる。
身体のリラックスの一番の壁となるのが「心」のあり方。。
「技」とは「技術」の事。ジェンベで言うと、「太鼓を叩くテクニック」自体と、
「知識、経験」と大きく二つに分けることができる。
僕も日々行なっているワークショップとは基本、
この「技術」部分をシェアする場としてある。
曲の名前と意味、歌、伴奏パターン、合図、ドゥンドゥンアンサンブル、
太鼓を叩く時の姿勢、細かいリズムの叩き方、など、アフリカンのテクニックは
「シンプル」だけど「奥深さ」を感じられる。
そこに外国人の心をも掴んで離さないような魅力があるんだと思う。
圧倒されるライブのパフォーマンスにも必ず散りばめられている沢山の「技術」
「技術」が「技術」と競争し合う事で、向上しあっているのは事実だが、
その渦の中にいるとどうしても「競争=対他者」が心を支配してしまう。
本来の「技術」は自分のため、そしてそこから広がる誰かのために使いたい。
叩くための技術は「体」と繋がっており、知識や経験は「心」と繋がっている。
異国の音楽を習得するには、外からの情報、すなわち
知識や経験を駆使して自分の中に留めておかなければならない。
「初めてアフリカンを聞いた時は、どれも似たような曲に聞こえたが、
今聞けばその違いがわかる」って事は、自分の中にアフリカンの経験や知識が
増えたから。そう思えば、曲をきく耳や、曲やフレーズを理解し記憶する事も
「技術」の一つと言える。
「心」とは「精神力」の事。順番的に一番最初に来るはずですが、
アフリカンでは「心」が一番表現しにくいポイントかなと、最後にしました。
確かに直訳で「アフリカンの精神力」と言われてもピンとこない。と思う。
しかしあえてその路線で話すなら、僕にもちょっと分かる。
「アフリカ人の持つ精神性」と「ジェンベ」
と言うものは本来本当に密接に関わっている。
すべての儀式に意味があるように、ジェンベの音楽には意味がある。
僕らが「音楽」や、ただの「リズム」として捉えてしまいそうなモノにも、
彼らにとって深い意味のあるものだったりする。
だから僕らが、良きと思ってやった演奏も場合によっては、
彼らにとってすごくナンセンスな演奏になってしまう危険もある。
「鏡餅の上に橙(だいだい)でなくイチゴがのっている」ようなアベコベを、
「これが日本の伝統です!」と外国人に言われたようなものかも知れない。
その時どう思うかを想像すると、
「日本の伝統鏡餅をアレンジして、イチゴをのせてみました」と
言われた方が許せる。うん。リスペクトしながらも新し事に挑戦してる感じ。
と、横道にそれましたが、もし「アフリカ人の精神力」を学びたいのなら、
少しでも彼らと生活し、近くに感じる必要があると思う。
しかしこれは、誰もができることではないと思うので、他の路線で考えて、
「心」=「心のあり方」として捉えてみる。
これならどんな奏者にも当てはまる。
ジェンベを叩いていて、なかなか「心のあり方」まで考える事はないが、
シンプルな楽器ほど、その時の感情というものが露骨に伝わるものである。
「いつも叩けているはずのフレーズが、叩けなくなる」事や逆に、
「いつも出てこないようなフレーズが突如出てくる」ような事は、
「体」「技」の問題ではなく、「心」の管轄である。
「心」がどんな状態だから、自分がどうなるかまで考えて準備する事は、
プロのパフォーマンスの世界では当たり前の話なのかも知れない。
しかしまぁそれはあくまで個人の「心」の話。
アンサンブルと言う他人と奏でる音楽は、自分の「心」だけでは語れない。
「関係」があり「会話」があるから、弾むことも、沈黙も、衝突することもある。
口喧嘩、恋話、説得、漫才、漫談、応援、一方通行、、、、
など色んな会話があるように、
太鼓のアンサンブル一つとってみても、
色んなレベルの会話がそこでなされている。
聞くことも、話すことも会話の一つ、しかし聞き方、話し方も人それぞれ。
その会話の雰囲気、方向性を作っているのが「心」の部分なのである。
例え、英語を完璧にまで話せるようになったとしても、「自分の話したいこと」
「伝えたい事」がなかったり、そもそも「人嫌い」というのであれば、
宝の持ち腐れというべきであるように、音楽やにもやはり何かしら、
誰かと共有したいと言う「メッセージ」が乗っていると、
聞き手は「聞こう」としてくれるものである。
だから
「なぜ自分が太鼓を叩いているのか?」っていう哲学的かつ根本的な問いは、
答えを出すこともそうだが、考えること自体に意味があると思う。
そうやって「心」が描くものを表現するために、
「体」を駆使し、「技」を磨く。
「技」と「体」から出た表現を見て(聞いて)、「心」が動くこともある。
「体」があるから、「技」を上手く表現でき、
「技」があるから「体」と「心」に余裕が生まれる。
「心」の余裕は「体」を緩め、「技」を上げ、
「心」の緊張は「体」を硬直させ「技」を下げてしまう。
「心」と「技」と「体」。
やはりこれは三つ巴で「心技体」なのである。
アフリカンもバランスよく鍛錬しましょう!
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