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正解のある暮らし。

 令和に入って、早3ヶ月が経とうとしている。。
考えてみれば、昭和生まれの僕は、3つの時代(年号)を経験している事になる。

 僕と同世代の人たちはきっと、
昭和、平成、令和と、日本の成長?という名の「変化」を肌で感じ、
それぞれ、その変化に対応したり、抵抗したり、してきた世代なんだと思う。
 その「変化」の中には、今までの価値観がひっくり返るようなことも、
あったし、新しい価値が生まれたり、廃れたりする事もあった。
だから、僕らは「価値」が変わる事も、
ある日いきなり「正解」が変わる事も知っている。
時代はゆっくりだけども、確実に変わっている。
と思う今日この頃。

 アリストテレスの時代から「昔は良かった」と呟く様に、
我々はノスタルジーに浸りながら、
新しい時代への変化にブレーキをかけるところがある。

 やはり人間「新しい事」には少しばかりの恐怖を感じるのである。
過去の経験から生まれる、その恐怖心が「失敗」を予見して、
「挑戦」することから、遠ざかっていってしまうのである。
それでも、その恐怖心があるからこそ、穏やかに、緩やかに変化出来たのも事実。
人間の探究心だけで、世界を動かしていたら、今頃地球は無いかもしれない??
 全てはバランスが大切だと思うのです。

さて、そんな中で昨今、僕らの生活の中で急激な変化を遂げている事がある。
それは「僕ら人間が正解の中に生きる様になった」事である。

 確かに、
DNAを調べれば「いつ、どんな病気で死ぬか?」も分かるかもしれないし、
googleで調べれば、大抵の情報は把握できるし、
どんな分野も技術革新して、一昔前と比べものにならない程に、
分かったことが増えている。
 分からない事が減った分、僕らの生活に「正解」が増える様になった。
今まで、グレーでやってきた事も、
白黒ハッキリとしなければ気が済まない社会となった。
学校の中にいた「変わり者」にADHDという病名を付け、
給食を多く食べる子には、大盛り申請して別料金とか、
テレビでは誰もが、芸人的返しを要求されたり、
僕が、僕であることの証明のために、番号を付けられたり。。

僕らが「正解」を求めるように教育されて来たからか?
「正解」は確かに「安心」に繋がる。
しかし「正解」において重要なのは、
「どうしてそうなったか?」という過程を経験、理解する事である。

 それを差し置いて、「正解」だけを求める教育法は、
浅はかであっても、「正解」とみなされた考え方や、
その答えに疑問を持つ事もなく支持して、
「失敗」する様な危険は犯さず「正解」だけを求めて生きる人間を作る。

そうなった「正解」側からすると、間違いを犯す事、
つまり「失敗」する事は、「悪」となる。
しかし、
所詮は「正解」も人間のある視点から見た物事の一つの捉え方に過ぎない。
 DNAで色々分かったとしても、その人が死ぬ正確な日までは分からない。
(事故だってありうるし、手術して寿命が伸びたり)
 SNSで流れている情報だけで、自分は判断出来ない(して欲しく無い)
と思うのと同様に、ネットの情報が全て正しいとは限らない。
 「動いているのは地球じゃ無い、天が動いているのだ」という
天動説がなんの疑いも無く、信じられていた時代がある様に、
僕らが当たり前だと思っていた事が、覆ることは大いにありうるのだ。
 人生の中で「失敗」は出来ればしたく無いものではある。
でも、振り返れば、「失敗」から学んだものは大きい。
その時は、落ち込むけど、「正解ってなんだろう?」と立ち止まり、
そこから「また次」って何かを乗り越え、右葉曲折して成長して来た。
 ポリリズムの章でも書いたけれど、
結局「失敗も大きな流れで見てみたら、軌道修正の通過点でしかない」のである。
 その「失敗」を経験せずに生活したら、言うまでもなく平坦だろうし、
万が一、「失敗」の曲線を描いてしまった時に、
「また次」って立ち直る練習をして来てない分、軌道修正に時間がかかったり、
軌道が上向きになるまで、気力が持たない人だって沢山いる。
そうするとますます「失敗=悪」「正解=正義」の図式になり、
「正解」の中に生きる人が魔女狩りのごとく、「失敗した人を」祭り上げ、
安心を得るという様な現象が起きるのだ。

 そうやって、「失敗」のリスクがない様に生きようとするのが現代である。
ランチを食べに行くとしても、「失敗」しない様にネットで評価を調べ、
「自分が行きたい」よりも「オススメです」の言葉で観光旅行したり、
料理も、ネットの料理番組を見ながら、同じものを作る。
 それがスマートであるのは百も承知なんだけど、
常識や、他人が作った「正解」ばかりを信じ、その中だけで行きていると、
「正解」から外れそうなリスク(挑戦)は犯そうとはせず、
例え「正解」自体に疑問があっても、それに疑問を感じてしまう自分を
逆に疑ってしまうという様な自体になってくる。
(どこに行っても、人が多いと感じたり、遠出する度に渋滞にはまるのは、
 常識的な「正解」を選んでいるから?)
だから盲目的に「正解」だけを求めるのではなく、自分の経験、感性、感覚、
から来る、今の時点での自分の「正解」を追求して行ったら良いと思う。
 その答えには「責任」が伴う。
でも「責任」があるからこそ、どこまでも自由に広がる事ができる。
 生き方も音楽も同じ事が言える。



 






 

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