ジャンベは言わずとも知れた「口頭伝承」の楽器である。
紙や音源に残すことなく、
脈々と人々の脳内から脳内へと伝わって来た知恵である。
これは、アフリカの識字率の低さの結果とも言えなくもないが、
音楽が文学よりも先に、人々の生活に根ざしていたから、と言うこともできる。
世界の歴史を見てみても、人々が文字を持つ前から音楽はすでにあったと思う。
それは、祈りそのものだったり、神の真似事、冠婚葬祭、感情表現、
労働の為の道具としてだったり、それこそ鼻歌だったり、、、
つまりは、ものすごい主観的で
「今、半径10m以内にいる自分たちにとって意味をなす」ような、
重要であり、当事者たちにとっては当たり前で、些細な音楽だった。
それが、文字を持ち、音楽が楽譜に記されることで、
「音楽」が時代や言葉を超えて存在し、
また初めましての人とも共有できるものとなった。
そうやって音楽は「誰にとっても意味をなす」手軽で厳かなものとなった。
文字が生まれて、文献が残って、歴史が生まれたように、
楽譜が生まれて、音楽は客観的に語られるようになった。
つまり、楽譜がない音楽を、「有史以前の音楽」
楽譜に記された音楽を「有史以来の音楽」と区別することができる。
これは音楽を表現する中で、立場というものが大分違う気がする。
ジャンベ、ドゥンドゥンなど、アフリカンで括られる音楽の立場は、
いわゆる「有史以前の音楽」と言うことができる。
「有史以前の音楽」は楽譜がないから、
言葉や歌となり、人から人へと伝わったわけだが、
その長い長い伝言ゲームの行く末、今に残っている音楽というものは、
奇跡的とも言えるし、必然的とも言える。
なぜなら、
長い歴史の中で、取り留めなく、幾万と生まれて来た音楽の中から、
伝承を繰り返す中で、忘れられたり、伝える人が居なくなったり、
淘汰された後、後世に伝わる音楽はほんの一握り。
その中の一つの音楽だとしたら奇跡的だが、
その音楽自体に「人間(人類)の感覚と、記憶に残りやすい作用があった」
とすれば、後世まで伝わったのは必然ということもできる。
何が言いたいかというと、
「感覚に引っかからない音楽」は「有史以前の音楽」にとって致命的なのである。
逆に言えば、今ある「有史以前の音楽」には、
人々の「感覚に引っかかってきた何かがある」のである。
ジャンベの伴奏パターン一つをとって見ても、それを感じることができる。
もちろん、初めは色んな「慣れない」があって、それどころではないが、
叩き込んで、そのフレーズが自分のモノになった時(叩きながら喋れるくらい)、
腕が自動的に動いているような感覚(オートマチック)になる。
それは自分で叩いているようだが、周りの音との調和も相まって、
押されるように、あるべきところに収まるのである。
動き的にも、精神的にも、肉体的にも
自然に入れるスポット(グルーブ)に達すると、
そんな先人たちの生み出し、使い回され、淘汰され、残ってきた感覚の
片鱗に触れたような感覚になるのです。
口頭で伝わって来た音楽だけに、
そのグルーブへ達するヒントが口太鼓にあると思うのです。
次回に続きます。
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