ツアーやイベントなどで、大分blogから遠ざかっていました。。
音楽とは全然関係ない話ですが、正義の見方について。
先日、アクリルたわしについての記事を読んだ。
「アクリルたわし、マイクロプラスチックとなり海へ」と言う様な内容。
最近、世界的に話題となっているマイクロプラスチックの海洋汚染。
化繊の服や歯磨き粉などから出た、
目に見えないほどのプラスチックの細かいチリ。
排水溝や下水から、川へ流れ出し、
世界の海を股に掛け、浮かんでいる消えない君。
それを餌と間違えた魚や海の幸のお腹の中から、
見つかっている分解されないゴミ。
そして、知らないウチに、海の幸として、僕らの身体の中に戻って来ている。
ここで問題としたいのは、勿論、この有限である環境を考えて行く事でもあるが、
この連鎖の発端、きっかけ、繋がりは、
全て人間の疑い無き「正義」から導き出されていると言う点である。
庶民にも「安価で暖かい服を」という企業の正義の元考えられた化学繊維や、
「虫歯を無くし、歯磨きの時間を短縮させる」というある種の正義感の元、
研究者達は歯磨き粉に研磨剤となるプラスチックの粒子を混ぜたのだと思う。
そもそも住宅や街から川から海へと流れる下水システムも、
「クリーンで快適な生活を送りたい」という「陸の正義」が作ったものであろう。
ここに来るまで、「正義」の連鎖のはずだが、
「正義」の通った後には何かしらの「犠牲」が生まれている。
そして10年前には、「洗剤を使わずに海を汚さない」という理由で
推奨されていたアクリルたわしの「正義」も、
時代と共に正義では無くなったという。
つまり「正義」は立場や時代によって、
容易に悪にもなりうる相対的なものなのである。
「正義」自体を否定するわけでは決してない、
技術者達の沢山の「正義」が技術をここまで革新させて来たのも事実であるし、
僕らが普段、人間たる生活ができているのも「正義」のおかげ様である。
しかしその絶対的さゆえ、正義は蜜の味となり、
「その他の正義もある」と言うことを忘れ、
ただただ自分の正義(感)の魅力に取り憑かれていく危険性もあると言うこと。
人は一度「正義」に取り憑かれてしまうと
自分の正義の外にあるものが「悪」に見えてきて、(排他的)
自分の正義に関しては疑い無くなって行く。(妄信的)
戦争や宗教紛争などがその代表例で、
戦う同士、それぞれがそれぞれの「正義」を思う気持ちは同じくらい純粋なのに、
それ故、違う立場同士お互いを敵とみなし、「悪」を創り上げてしまっている。
ある戦場を、どちらの視点で描くかによってストーリーが変わるように、
カメラがどちら側の見方で撮るかによって「正義」と「悪」も簡単に入れ替わる。
つまり、戦争に「正義」VS「悪」は無いのである。
それは「正義」VS「正義」だし「悪」VS「悪」とも言える。
歴史では、勝者が「正義」のとされ、敗者が「悪」として語られる。それだけ。
「正義」と「悪」は表裏一体、見方の問題なのである。
日常生活で言うならば、自分が「良かれ」と思っている事が、
必ずしも他の誰かを「良い気持ち」にするわけではないと言う事である。
その押し付けられた「良かれ」が、自分の「良かれ」に反していた時、
逆にそこには嫌悪感、すなわち「悪」の感情が生まれる。
大げさに言えば「正義」が「悪」を作った瞬間である。
だから、自分の「正義」を語るときは、
それが「絶対的」ではないと言うことを承知している、謙虚さが必要になる。
体験的に旅の中、
その土地の「正義」が自分と違うと言う場面を何度も味わいました。
初めの頃は、自分の正義を押し通し、それを正して行こうと奮闘していましたが、
価値観の違う人間同士、その討論は無意味だと分かりました。
(価値観を作っている主な要因は宗教、そして郷に入ったら郷に従う)
そして、相手の「正義」に耳を傾けた時、
そこには僕の想像を遥か超えたところに、
彼らの愛情や、誠実さが含まれている事に気がつきました。
「正義」へと向かう心は同じ。
環境や習慣、価値観が違うから出て来る答えが違うのだと思いました。
自分と違う「正義」を持つ人とも出会う時もあるが、そんな時は、
自分の正義は心の奥にそっと灯しつつ、時に誰かの「正義」にも耳を傾け、
そんな考えもあるんだと、「正義」の多様性を知り、
お互いの「正義」を尊重しつつ、自分の「正義」の幅を広げて行くことが、
個人的にも社会的にも平和への一番シンプルな方法だと思う。
確かに、人間は「悪」があるから「正義」に酔いしれることが出来る、
悪人がいるから、正義の味方の存在意味がある。
「悪」がなくなれば、アンパンマンもハリウッド映画も味気ないものになる。
しかし「正義」対「正義」や「悪」対「悪」の中にも物語はあるのだ・・・。
ともあれ、ぼくら人間が、
長い歴史の中で脈々と受け継がれて来た「正義対悪と言う物語」に
慣れ親しみ、すっかりファンになっているのは事実である。
コメント
コメントを投稿