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アフリカ音楽のすすめ

  記念すべき第一回目のテーマは「アフリカ音楽のすすめ」。


アフリカとひとくくりに言っても、それは日本の何倍もの面積のある大陸。

東、西、南、北と地域が変われば、言葉も文化も音楽も全然違う。



でも、日本人だからこそ感じるのか?

アフリカで産まれた人の根底にある共通するアフリカ人的感覚は確かにある。

匂い?空気?雰囲気?よくわからないけど、特に、肌の色の黒いブラックアフリカン

と呼ばれる彼らは何百もの部族に分かれながらも、

やはり皆どこか同じ空気感みたいなモノをまとっている。

  反対にアフリカ人が西洋人やアジア人を見た時にも、同じように感じる事だと思う。

肌のいろ、骨格、と言った見た目じゃないもの。

それは何か?

  そのヒントが音楽の中にに隠されていると思う。

僕自身は、西アフリカのギニア、マリ、コートジボワール、ブルキナファソ、セネガル等

に広がるマンデン音楽が、アフリカ音楽の入り口であり、今でも1番の大好物である。



  そこから入って、konono no.1 やベンダビリリ、リンガラ、タンザニアのリンバ、

ハイライフ、ケニアのンゴマなど、アフリカの他の地域に広がる魅力的なの音楽も

知ることになる。

  そこで感じる共通性は「根底ループ(繰り返し/リフレイン)で出来ている」と言うこと。



つまり、同じフレーズないしリズムが繰り返されることで、音楽となる。

そしてその上に、唄しかりメロディーしかり、ダンスがある種即興的な表現を乗せる。

これは、植民地時代にアメリカに連れて行かれた、アフリカ人の子孫達が作った

音楽の中にも現れている(ex   HIP HOP, BLUES, JAZZ...)

表現者は代わる代わるだったり、その時その場所の言葉だったりするので、

曲の長さは決まっていない。フェイドアウトと言う手法も、その昔

アフリカの何処かの部族の演奏をレコードにしようとしたが、演奏が長過ぎて

全編はとてもじゃ無いけど録音出来なくて苦肉の策で生れたと聞いた。


  逆にクラシック音楽、歌謡曲、J-popは、初めから終わりまでがしっかりと決まってて、

起承転結、曲全体の長さも、内容が変わることもほとんど無い。正解の形がある音楽。




  この二つ音楽の違いは、演奏してみるとよく分かる。

分かりやすく前者をブラックな音楽、後者をホワイトな音楽とすると、

ブラックな音楽を演奏をしている時、ループを保ちながらも集中力は今という瞬間に向け

られていて、例え、初めましての人であっても臨機応変に会話をするように、

今という瞬間を瞬発的にミクロな視点で捉えている。

今、今、今の連続が音楽をつくる。

一方、ホワイトな音楽を奏でる時は、まず原曲を聴いて、譜面や歌詞を共有して、

何回かリハーサルをして、頭からお尻までの全体像をイメージ

出来るようにマクロな視点捉えている。

起承転結で音楽をつくる。


曲を演奏する時に感じる時間軸の違いとでも言うのか?

この感覚的な違いが、僕にアフリカ人に共通して何かがあると感じさせているのかも。

つまり大げさな話、


音楽同様、アフリカ人は生き方、立ち振る舞い、考え方の視点が「今」にあり、

西洋や先進国と呼ばれる人達の生き方、立ち振る舞い、考え方の視点は

「過去から未来まで」多くの制約と正解と不正解の中にあるのではないかと。

 ブラック、ホワイトと別けたが、僕自身どちらの音楽も好きだし、どちらが優れてる

とかは考えたことは無い。



 ただ、過去の過ちをいつまでも後悔したり、過去の栄光にすがったり、

「いつか何かあったらどうしよう」って心配になりすぎて、今を楽しめなかったり、

「そんな夢のような未来は無い」と今を諦めてしまったり、今を愉しむ事に罪悪感を

感じてしまう人達に、アフリカのループ音楽を是非、すすめたい。

聴くのは勿論自分で奏でる事で、日常の中でも今を大切にできるはず。



  「今を積み重ねて、今日に至り、今は過ぎ去った瞬間、もうニ度と戻ってこない。

だからこそ今を大切に、この瞬間を燃焼するんだ」

言葉は分からなくてもアフリカの音楽はそんな事を僕らに言ってる気がする。。



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