眼が覚めると、蒸し暑いベットの上だった。
時計を見るが、時刻を合わせていないので、今が何時かわからない。
でも感覚から言うと、午後3時か4時くらいだろうか?
目の前の扉を開ければ、待っているであろう異国の景色を想像しながら、
僕はベットから立ち上がった。
実は、前の晩、初めてギニアの空港に降り立ち、
イミグレーション、タクシーとこの国の洗礼を受け、真夜中、
ガイドブックに載っていたこの宿になんとか辿り着いた。時間も時間だったので、
門は閉まっていた。が、タクシーの運転手はおかまいなしにその鉄製の扉を叩く。
脇のドアから、警備員らしき人物が出てきて、僕を通してくれたのだが、
受付は朝の7時から開くから、それまで待て、みたいなことを言っている。
「どこで待てばいい?」なんて言葉も浮かんでこない僕は、質問を諦め、
宿を一周して、階段下に仮眠ができそうな場所を探し出し、
バックパックを枕にして、持ってきた蚊帳に包まって横になった。
が、蚊の羽音に睡眠を阻まれつつ7時を迎え、
ウトウトの状態でチェックインを済ませ、
部屋に入るやいなや、ベットに倒れこむ様に眠りに付いたのだった。
扉をあけて、外に出るとまだ強い日差し、そして南国っぽい木が見えた。
夜には見えなかった、光とともに活気を帯びているこの国の
「普通の通り道」を歩いてみたかった。
「自分の感覚に任せて、どこでも好きなところへ行けるこの感覚が旅の醍醐味」
なんて思いながらレセプションで、ユーロをギニアセファーに両替してもらい、
ワクワクしながら街に出てみることにした。
当たり前だが、目の前に見えるのは自分以外は全員黒人だった。
しかし以前に行ったお隣、マリとはほんの少し雰囲気が違っていた。
この通りは、マリ人の様なのthe民族衣装的な格好をしている人よりも、
西洋的と言うか、ジーパンにタンクトップみたいなラフな格好をしてる人が
多かった。人々も活気が溢れていて、コミカルかつ、よくおしゃべりしている。
それものそのはず、ここコナクリは海に面した街、気質も陸の街とは違うのだ。
「そういえば小腹が空いたな」と辺りを見回すと、
前方で芋らしきものを路上でフライにしているおばさんがいたので、
頼んで一つ買ってみる。と、片手では持てないくらいの、想像以上の量が来た。
「こんなに食べられないよ」と内心思いつつも、初めての買い物に成功した。
揚げたての芋はサツマイモのようにほのかに甘く、美味しかった。
芋をかじりながら、コナクリにあるという海を目指して歩いてみる事にした。
と言ったって、場所は全然わかってないから、適当な道を選んで進んでいくと、
すぐに潮の香りがしてきた。数メートル進むと目の前には海が広がっていた。
残念ながら、綺麗な海岸ではなく、船着場のような所だった。
ゴミはそこらへんに落ちてるし、
海の上にも、ビニールやペットボトルがプカプカと浮いており、水は茶色だった。
しかし海には人を引き寄せる何かがある。
その証拠に、この港には多くの人(男)が集まっている。
怪しい雰囲気は満点だが、
「海はみんなのもの」と構わず、桟橋に向かって歩いて行った。
すると岩場のところで2人の青年とすれ違いざまに目があった。
少し歩くと後ろから声をかけられた「こっちに来い」と手招きをするので、
踵を返し彼らの元に行く事にした。(彼らから怖さや悪さを感じなかったから)
ジギーとモッターと名乗るこの青年2人は、学生で英語を学び中らしく、
色々なものを指差して、英語で何て言うのか教えて欲しいと言う。
別に英語のプロフェッショナルではないが、彼らの申し出に答えると、
代わりに現地のスス語での呼び方も教えてくれた。
お互いノートを取りながら小一時間、
お互いの話をしたり、残った芋フライを一緒に食べて過ごした。
その中で、「自分はジャンベを習いに来て、先生を探している」と伝えると、
モッターが「俺の親戚の兄貴の従兄弟の誰かがジャンベをやっている」から、
ここに電話をしてくれと電話番号を書いて渡してくれた。
「ここからお金が尽きるまで、自分が納得するまで、この国に留まろう」
ってこの時点で思っていた僕は、師匠選びは慎重に進めようと決めていた。
だからモッターの親戚ってのはありがたい申し出ではあったが、
会った事も、どんなプレイヤーなんかも分からないと言う点に乗り切れずにいた。
僕の心の葛藤とは裏腹に、「電話ボックスはあっちだ」とジギーが指差す。
その指差された方を見ると赤いプレハブが見えた。
彼らの熱意と親切心に突き動かされ、仕方なく電話ボックスの方に向かって歩く。
その距離300メートル。
その間に「モッター達には電話通じなかった」とでも言えばいいかな?
なんて言い訳を考えていた。
電話ボックスが100メートル先に見えた時に、
左側が何かやたらと気になった。
ふっと左を向くと、一人の男と目が合った。
ここからの行動は自分でもびっくりなのだが、
僕はそのまま進行方向を変えて、目が合った男の元へ歩いていた。
歩きながら僕は、昔の友達に偶然会った様な、驚きと安心感を感じつつ
彼の前に行き、ごく自然に「how are you?」と英語で話しかけた。
話しかけながら「ここはフランス語圏だろ」と自分にツッコミを入れてたら、
「I m fine! and you ?」とその男の口からも英語が帰ってきた。
それが、僕のギニアでの師イブラヒム・ソリー・ケイタとの出会いだった。
その一瞬の行動から、その後8ヶ月以上彼と毎日共にする事となるのだが、
ドゥンドゥン奏者で、プロデューサー気質の彼は、出会って1ヶ月経った頃に、
「俺はジャンベも叩けるが、専門はドゥンドゥン、
もっと本気でジャンベを叩きたいならやはりジャンベ奏者から習うべき」
と、一人のジャンベ奏者を連れてきてくれた。
(先生として、自分以外の先生を連れてくるのは凄く勇気の要ることだと思う)
イブロが連れてきたジャンベ奏者は、
先生と呼ぶにはまだ幼さの残る顔をしていた。
水牛のような体格のイブロに比べると、線が細く、背もそんなに高くはなかった。
しかし彼の太鼓の音は、イブロに勝るとも劣らない、正真正銘のジャンベ叩きの
音だった。それどころか、これまでの1ヶ月間の中で見た事ないくらいに高速な
フレーズを軽々入れるジャンベの名人だった。
一聴で彼のプレーに魅了され、その後もクラスに来るようにお願いした。
それからほぼ毎日彼は片道40分くらいの道のりを、
乗合タクシーを使ってレッスンしに来てくれた。
毎日少しずつ増えていくフレーズを楽しみに、時に怒られ、褒められしながら
彼とイブロと過ごしたおかげで、僕の中にアフリカンの基礎というものが出来た。
そう、そのジャンベ叩きの彼とは現在栃木在住のバズーカこと、モモケイタ!
思えば彼との付き合いも13年以上。。
あの時は思いもよらなかったけど、
そんなモモを呼んで湘南で一緒にイベントします。
10月4日(金) カバレサカバデーvol.8 @ OPPA-LA
13年という月日は、
お互いを少しづつ変化させ、成長させてくれたように思います。
ギニアの一ジャンベ叩きだった少年は、今や異国の地で生活し、自らの作品を
アルバムに残し、ライブでは自らが歌い叩き、各地で人を魅了し続けている。
何より貫禄が増しました。
かたや日本のジャンベ見習い青年も、人に教える立場になり、
ンゴニやブルキナ音楽という新しいアフリカにも出会い、
「この音楽達を日本にどうやって広めていくか」
を日々考えてたりしている。。。。
長くなりましたが、
そんな師であり、友であり、青春時代を共に過ごした同志のようなモモ。
みんなに見てもらいたいし、長い付き合いだからできる何か特別な事もやろうと
思ってます。最後は宣伝になりましたが(笑)是非遊びに来てね!!
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